シルクロードの旅―2 7月20日(金)張掖 AM6:00、起床。昨夜は3度もトイレに起きた。1昨日と同じである。シャワーが無く、寒いままで着たきりの睡眠は、老人には応える。1日1日が完全なサバイバルゲームの様相を呈している。それでも朝起きて、特に体調に異変がなければ、あと数日は元気でいられるかなと思う。 AM6:30、外を見ると、激しい嵐である。横なぐりの風雨である。テントで寝た仲間は、ずぶ濡れになっても、風が強いためテントを折り畳めないでいる。寒くて何度もトイレに起きはしたが、本当に車中泊にしてよかったと思う。真夏とは言え、天候が急変する高度3000mでの野宿は、注意が肝要である。 朝食係の二人の女性は、頭から濡れながら、お湯を沸かしたのであろう。車内に避難してきた仲間は、シリアルを食べたり、熱いコーヒーを飲んだりしている。私は、こんな状況ではシリアルを食べる気にもなれず、熱いコーヒーだけにした。 AM7:45、トラック・バスは雨が降る中を、予定通り出発。ずぶ濡れになったマークが私の後ろの席で着替えをしている。乾いた靴下に履き替えるマークの足がとてつもなく大きい。「足の長さは何センチですか?」と聞くと「33センチです」と言う。私の足が26センチだからそれよりも7センチも大きいことになる。「靴はアメリカからインターネットで購入します」と言う。 AM9:30、トイレ休憩。カップラーメンを食べて暖を取る。4元。とても美味しく感じた。中国のカップラーメンでも、辛い調味料を入れなければ、そこそこ美味しく食べられることが分かった。この台詞は妻には内緒!腹具合が落ち着き、青空が出てきたら、眠りに陥った。 AM11:00、トラック・バスの車窓から見える風景は、当然ながら毎日変化している。地形、天候、農作物、人々の暮らし、動物の種類。旅行の醍醐味は詰まるところ、その変化、できれば見たことがない物を見ることにあるのだと思う。 祁連山脈の濁流(門源県) 菜の花畑(門源県) トラック・バスは順調に目的地に向かって走り続けていた。ところが、ある地点に来ると、「通行止め」の表示と柵があった。運転手は迂回しようと思ったのか、少し戻った所を左折して進んだ。しかし、その道も暫く行くと通行止めの表示と柵が。万事休す! どうするのか見ていると、最初の通行止めまで戻り、その近くの工事用道路のような、脇道へ入って行った。当然舗装はされておらず、トラック・バスの振動は半端ではない。シートベルトがなかったら、何処かへ飛んで行きそうである。しかし、結果はこの道路を選んで正解であった。運転手の苦労が忍ばれる出来事ではあった。 PM2:00、「張掖」のホステルに到着。チェックインを済ませると、早速洗濯に取りかかる。塗れただけで生乾きの衣類はそのまま干し、汚れた衣類は洗濯機に掛ける。 私が洗濯場所に行くと、1台しかない洗濯機は既に占領されていた。私の後にも、仲間が次々と洗濯機を求めてやって来た。私はこの後、昼食として、この日2回目のカップラーメンを、大急ぎで食す。4元。 PM3:30、皆で本日のメインイベントへ。予備知識の無い私はひたすら仲間に付いて行く。いわゆる「レインボウ・マウンティン」に行くと言う。英語のガイドブックにはそう書かれているのであろう。日本語のガイドブックには「丹霞地質公園」となっており、現場に行ってみると「張掖七彩丹霞」と書かれたバスが次々と運行されていた。 この「七彩」が英語ではレインボウと訳されているのであろう。つまり、ここの赤みがかったり、白かったり、灰色だったりする岩が、太陽の光を浴びると、七色に変化すると言う。そこで今日の日没を見に来たと言うわけだ。 この公園までの車代が、45元。公園の入場料が一般人は54元。シニアの私は無料。公園内の移動に使うバスの運賃が20元、と余りお安く無い観光料だ。公園内を移動するにも肩をぶつけ合いながら歩くようで、日没前に疲れきってしまう。 日没なら、今までにも、オーストラリアのカカドゥ、エアーズ・ロック、アメリカ合衆国のグランド・キャニオン、モニュメント・バレー等と幾つか見ている。どれにも共通している事は、赤みがかった岩山が有るという点である。 日没前のレインボウ・マウンティン(張掖) 中国の旅順に語学留学した時、ウルムチ出身の女学生に、アメリカ合衆国のモニュメント・バレーの写真を見せると「こんなのは中国に幾らでもありますよ」と、事も無げに言われたことが妙に引っかかっていたが、ここの景色を見ると、彼女の発言に納得せざるを得ない自分が居た。 PM7:00、アイスクリーム、6元。バナナ5元。 PM9:00、往路と同じように、ホステル手配の2台の車に分乗し帰路へ。肝心のサンセット、日没は、そのヴィユー・ポイントから見ることは出来なかった。人混みに疲れてそこを離れており、私が見たのは何処にでも有る普通の日没であった。 若いセブギが、カメラに収めてきた写真を見せてもらったら、確かに周りの岩がカラフルに色づいていた。普通人とシニアの入場料の差が、こんな所に現れるのかも知れない。 PM10:00、皆でホステルの近くにあるレストランへ。トマトがトッピングされた焼きうどん。13元。スーパーで水を、6元。中国に来てから円換算する時は、大雑把な目安として、元の金額を20倍する。正確には18円台だから、即座の判断の目安にはなる。 スコットは8年間も兵役に居た。デリケートな質問だが、思い切って聞いてみた。「その8年の間、セックスはどうしていたのか?」「僕には幸いにも彼女がいましたから、週末や休暇で郷里に帰った時に出来ました。しかし、売春婦を買う人も普通にいました」と、何のためらいもなく答えてくれた。それが現実であろう。 PM11:00、帰着、シャワー。 PM12:00、就寝。
7月21日(土)張掖 AM6:30、起床。久しぶりに気持ちの良い朝を迎えた。4日ぶりのベッド、4日ぶりに髭を剃り、擦り傷の手当をする。おかげで大分乾いてきた。しかし、傷宛を止めていた絆創膏に負けて、皮膚に水ぶくれが出来たり、擦り傷ができたりしていた。なかなかすんなり治らないものだ。 AM7:20、ポメラタイム。 AM12:00、昼食。私は日本から持参の味噌ラーメン、スコットには彼の希望に従ってチキンラーメンをあげた。今日は1日フリータイム。久しぶりにゆっくり出来ている。 PM2:00、皆で町の中心に出かける。バス台は1.5元。約30円。20分間も乗ってこの値段は安い。中国の公共交通の運賃は本当に安い。 張掖市内見学の成果: 鎮遠楼(張掖市内) 甘泉公園(張掖市内)
マルコ・ポーロ像(張掖市内) 此処、張掖の町には、マルコ・ポーロが1年間も滞在していたと言う。居心 万寿寺木塔(張掖市内) 大仏寺(張掖市内) 大仏寺の入場料は通常が40元の所、私はシニア割引で1元!1元には、どういう意味があるのだろうか。入場券の紙代にもならないように思うのだが。ここには大きな寝釈迦が横たわっていた。この寺には、マルコ・ポーロも来たと当方見聞録に記されているらしい。 私とスコットは、市内の小さな市場でキャンプ用の椅子を購入した。50元。 ジョアンナは、重くて高級そうなカメラを抱えて、写真を撮りまくっている。夫のマークは写真の方は妻に任せっぱなしでサラッと見て歩くだけ。たいてい、先に見学を終え、出口で妻を待っている。ジョアンナは写真関係の仕事もしていたらしく、彼女の撮った写真はどれも素晴らしい作品である。 彼女はまた、1990年から1995年に掛けて日本で英語の教師をしていた。「神戸大震災があったのはその頃です」と言う。今の年齢、57歳から逆算すると、29歳から34歳まで日本に滞在していたことになる。 PM6:20、バスにて帰路へ。1.5元。 PM7:00、夕食にハンバーガーとコーラ。20元。帰路に、ボトル水とパン、14元。
PM7:30、ホテルに帰着。ポメラを叩く。仲間と自由に意志の疎通が出来なくとも、毎日書くことは出て来るものだ。 PM10:00、シャワーを浴びる。今夜はキャンプと違い、良く眠れそうだ。
PM10:50、就寝。
7月22日(日)嘉峪関
AM6:30、起床。ポメラタイム。 AM7:30、パッキング。 AM8:30、出発。中国語のラジオ講座の録音を聞いた。数年前に勉強したことを、少しずつ思い出しはする。 AM10:00、トイレ休憩。
AM12:00、ランチタイム。1人30元のバイキング。まずまずのお味で、久しぶりに、まともな食事に有りつけた。
セブギは、相変わらずカップラーメンだ。彼女に「昨日は何をしていたの?」と聞くと「1日中、何もしないで寝ていました」との事。一人で何処へでも行く子なのに。余程疲れていたのかな?
PM0:40、出発。 PM1:30、万里の長城の西端になる、嘉峪関に到着。
懸壁長城(嘉峪関)
数百段の石段を登って長城の頂を目指す。高度1850mの長城を上るには、かなりの体力が必要である。万里の長城に来て思うことは、「良くもまあこんな巨大な構造物を造ったものだ」と言うことである。
労力と言い、財力と言い、それらの消費は天文学的な数字になろう。しかし、それでも遂行しなければならない現実の問題がのし掛かっていた。匈奴侵入の恐怖である。
為政者は、国を守るため、即自分の命を守る為には、どんなことも厭わずにやるものだ。日本は、四方が海に囲まれていることで、敵からの侵入は免れてきたが、それでも、鎌倉時代には蒙古襲来の危機に直面している。
下山した所の茶店でスイカを1個購入。今夜のキャンプ時に皆で食べようと思って。60元。
スイカを購入(嘉峪関)
万里長城第一墩A(嘉峪関)
長城は北大河の絶壁で途絶えている。つまり此処が長城の終点(西端)であり、また始まりとも言えるので、此処にある墩(物見台)は、天下第一墩とも呼ばれている。
此処に併設された歴史文化体験館では、最近の写真と約100年前に撮られた写真とが並べてあり、長城の変化の様子を知ることが出来る。バッテリーカー代、12元。
PM5:40、本日のキャンプサイトへ出発。 PM6:30、キャンプ場へ到着。小石混じりの荒れ地にテントを張る。風が強く、一人で完成させることは困難であった。土が硬かったので、テントを固定させるペグを、持参の金づちで打ち込んだ。
PM7:30、夕食。今夜のメニューは、マッシュポテトとシチュー。ジャガイモは良く煮えていたが、シチューの具(人参、ブロッコリー、豚肉)がどれも硬かった。食後に私の差し入れで楕円形のスイカを食した。新鮮ではあったが、甘さは期待したほどではなかった。皆の評判は上々であった。 夕食後の懇談(嘉峪関)
PM8:30、ポメラタイム。 PM9:00、就寝。
7月23日(月)敦煌
AM6:00、起床。テントの撤収。暖かな夜でトイレに行くことはなかったが、風がテントに 良く晴れて、遠方には雪をかぶった山々が見える。張さんに聞くと「あれは東西に500kmほど続く祁連山脈です。最高峰は5000m以上有りますが、私たちは、あの山を越えてきたのです」と言う。7月19日に、高山病を気にしながら越えてきたのが、あの山だったのだ。
AM7:00、朝食。シリアル、目玉焼き、コーヒー、メロン、それに私が差し入れたスイカ。メロンよりもスイカの方が甘かった。今日は、運転手のジョノの誕生日で44歳になると言う。
AM8:00、出発。 AM8:30、嘉峪関の関所に到着。嘉峪関における3カ所目の見学。いずれも万里の長城の一角を成している所であり、それだけ重要な拠点であったことを物語っている。此処もその大半は復元されたものであろう。我々は外城の東に位置する東閘門から入場。 東閘門から入場(嘉峪関)
嘉峪関の関所(嘉峪関)
兵士が隊列を組んで行進したり、罪人が首輪をはめられて連れて行かれたり、遠来の客を丁重に歓迎したり、観光客向けのパフォーマンスが演出されていた。 観光客向けのパフォーマンスA(嘉峪関) 土産店が軒を連ねていたが、中でも様々な色や大きさの石を陳列している店が多かった。この地域ではそのような石が産出されているのであろうか。同行のスコットは、1軒1軒立ち止まっては、それらを興味深く眺めていた。
私は、茹であがったトウモロコシと大きなジャガイモ、それにリンゴを購入。21元。昼食の準備である。此処、嘉峪関の3カ所での見学料は、一般人が120元の所、シニアの私は無料であった。
AM11:00、出発。 PM0:30、昼食。私はトウモロコシとジャガイモ。ベジタリアンのセブギにも、1個ずつプレゼント。ニキータは1.5人分入りの大型カップラーメンを食す。
PM1:20、出発。走行中のトラック・バスの中で、キャメロンが私の所に寄ってきて、「今日のジョノの誕生祝いに、一人20元ずつプレゼントしたいと思うが、どうだろうか?」と言う。私は即座に賛成して20元を渡した。
後は例によって中国語講座のリスニング。テキストはないが、入門編だから聴くだけでも大体の内容は理解できている。アラビア語と違い、中国語は、漢字という共通の土台があるから理解し易いとも言える。 PM5:00、敦煌のホテルに到着。チェックインを済ませて部屋に行くと、3人部屋にも関わらず、ベッドは2つしか無く、しかも、部屋は散らかったままであった。交渉の末に決まった別の部屋は、通りの向かい側にあるホテルであった。今日から此処に3連泊する。キャンプでなくてほっとする。 PM6:00、ジョノの誕生日パーティーをホテルのロビーで行う。ビールで乾杯し、ケーキをカットして分ける。ビールを飲める連中が羨ましい。皆が一際上機嫌である。 私は此処で、同行のジョアンナに、敦煌莫高窟見学の手配を依頼した。実はこのツアーは、バスでキャンプ場又はユースホステル、或いは見学場所の近くまで運んでくれるだけである。見学そのものは、各自がそれぞれガイドブックを見るなりして自由にやって下さい。という寸法である。 莫高窟の見学は事前の予約が必要であるが、それも各自でやるしかないのである。現地での観光は全てオプショナルと言うことだ。ジョアンナは快く引き受けてくれた。 PM7:00、シャワーを浴び、ポメラを叩く。相部屋の二人は出かけて行った。今日の夕食はリンゴの1個だけ。 PM10:50、就寝。 PM11:00、ご機嫌なフーゴが、外出から戻る。大分アルコールが入っているらしく、こんなに陽気なフーゴを見たことがない。普段は、冷たい目をギョロッとさせて、猜疑心の強い風貌でしかないのだが。 7月24日(火)敦煌 AM4:00、スコット、外出から戻る。若さがはじけている!皆でカラオケを楽しんでいたそうだ。 AM7:00、起床。朝食が届けられた。プラスチックのカップに入れられ、密閉されて冷えたお粥。油で炒めた野菜の入った饅頭、2個。チキンソーセージ。茹で卵。いずれも美味しくはないが食べられないでもない。ただ、ソーセージだけは一口食べただけで止めにした。その後は、ポメラタイム。 AM11:30、町の旅行代理店へ。明日の敦煌莫高窟見学の入場券を買いに、徒歩で6人がジョアンナについて行く。小さな女店員が一人だけの店であった。ジョアンナが様々に交渉しているが、全くらちがあかない。 女店員は英語が出来ず、こちら側は中国語が出来ない。スマホの翻訳アプリを介して交渉している。結論は、この店では入場券は発券出来ず、「莫高窟入場券販売センター」へ行くことになった。 ジョアンナがこの代理店に来ることになった情報はどこから得た情報なのだろうか。販売センターへ行くことだったら、一人でも出来ただろうに。他人を頼ったが為に、返って遠回りになってしまった。 しかし、初めて来た敦煌の町を散策したと思えば、失った物は何もない。今度はタクシーに分乗して、販売センターへ。窓口が7ヶ所ほど在るこのセンターには英語の出来る係りが居て交渉はスムーズであった。外国人は220元。シニア割引は無し。 ロータリーに立つ飛天像(敦煌) 中国人のシニアには割引が効いて、たったの10元。この差は大きい。中国の料金表を見ていて目に付く事は「軍人割引」と言う1行が必ず入っていることだ。それだけ軍人は尊敬され、優遇されている訳だ。 PM1:30、昼食に皆でレストランに入る。私はチャーハンを食す。自分で作った方が美味しいと思うが、久しぶりの米食ではある。18元。 PM3:00、通りがかりの薬局で、消毒液を購入。擦り傷は大分回復してきたが、まだ少し血が滲むことがある。消毒だけは、しておきたいと思う。5元、更に帰路のスーパーで、ボトル水の、中と小を購入。7元。 PM4:00、ホテルへ帰着。暑い外気から、クーラーの効いた部屋に戻ってくると、生き返ったようだ。洗濯物を持って受付に行くと、「このホテルでは、洗濯はやっておりません」との事。まだ若干の着替えの余裕は在るが、貴重な休養日に洗濯が出来ないとは残念。ポメラタイムに切り替える。 PM6:00、ポメラ終了。夕食はカップラーメン、4元。その後、ガイドブックの莫高窟を読む。 PM10:00、シャワーを浴びる。 PM10:30、就寝。 7月25日(水)敦煌 AM6:00、起床。 AM7:00、ロビーに集合。ホテルから出された、携帯用朝食を食す。 AM7:30、タクシーを捕まえて「莫高窟数字展示中心」へ。20分ほどで到着。24元。 AM8:45、ここで、映画を2本見せられた。1本は、敦煌の歴史。2本目は、莫高窟の中の映像。2本合わせて40分間の放映であるが、共に見応えのある作品になっている。 仏教の隆盛と共に、4世紀から14世紀までの千年間に渡って掘り続けられた莫高窟。その間、敦煌を支配した民族は、漢民族はもちろんの事、チベット族やモンゴル族等、多種に昇るが、仏教が衰えたり、イスラム教に支配されたりすることはなかった。 ただ、15世紀以降は陸のシルクロードより、海のシルクロードの方が発展し、交易の中心地であった敦煌は次第に寂れ、その後の500年間で、735ヶ所もある莫高窟は、鳴沙山と言う大きな砂丘の砂に埋まって、忘れられて行った。 AM9:50、いよいよ莫高窟のある場所へ、専用バスで20分ほど行く。そこは砂漠であり、砂丘の裏側の絶壁である。昔は流れていたであろう川も、今はすっかり枯れている。絶壁に足場を組んで洞窟を掘り、その中に、塑像であったり、彫刻であったり、壁画であったりの作品を作り上げる。 莫高窟のある場所へ(敦煌) 莫高窟は砂漠の中にある(敦煌) 仏教により、国が平和になり、民衆の心が安定し、争い事が少なくなってきたので、仏教はますます栄えた。735窟の内、幾つかは個人の寄贈による。寄贈することにより、功徳が有ると信じられていたのである。そのような信仰心は、当時も今も何ら変わっていない。 AM10:30、私は、日本語での解説のグループに参加したのだが、参加者は私を含めて3人だけ。多いグループは、25人で一組になると言うから、我々の少人数は幸運であったと言うべきかも。若い女性解説者の日本語は、たどたどしいが、それでも英語で話されるよりは余程ましである。 かつては、日本人の団体が多かったようであるが、近年は減少しているのであろうか。実際、ジョアンナが30年ほど前に来訪したときは、多くの日本人団体に遭遇したと言う。 日中間の政治的摩擦が影響しているのかも知れない。私のグループの他の二人は、友人同士で、一人は東京在住、もう一人は、学校卒業以来、20年間も上海に住んで居ると言う。 二人の日本人観光客と(莫高窟) 彼女たちから「ここの入場券はどうやって入手したんですか?」と聞かれたので「昨日、敦煌のチケットセンターで」と言うと、「エ!昨日ですか?私たちは1ヶ月も前に予約したんですよ。旅行会社が買い占めてなかなか手に入らないんです」と言う。 莫高窟のそれぞれの窟は、いつ頃完成し、いつ頃修復されたかと言う研究は盛んであるが、その判断の決め手は、描かれている人物の顔立ちや、服装に寄ることが大きいと言う。 また一部の作品は、探検家や研究者により、日本を初め、多くの国外に持ち出されており、更に多くの物が、北京の博物館にあるそうだ。と言うと、今の莫高靴は抜け殻のようなものだが、それでもまだ見応えはあり、往時を偲ぶことは出来る。 日本語の解説が聞けたのは、7窟だけ。その中で印象に残ったのを幾つか挙げておく。 第17窟、この窟は、1900年に第16窟の入り口に発見されたもので、通称「蔵経洞」と言われている。此処から、いわゆる敦煌文書の巻物が数千点も発見されたという。この窟は本来862年の洪ベン(べんは巩の下に言)の死に際して制作された洪ベン像を納める御影堂として造られたものである。どうしてここに大量の教典や文書が納められたのか、諸説はあるが真相は分かっていない。 第61窟は、曹元忠によって寄贈されたもの。文殊菩薩の聖地とされる山西省五台山の大壁画があることから、文殊堂と呼ばれている。この図は形象地図としては世界最古かつ最大の物という。 第96窟は莫高窟のシンボルで、乾いた砂の壁に朱色の9層の楼閣になっている。この中に高さ34.5mの弥勒大仏が鎮座している。一瞬、奈良の大仏を思い出させる。 第96窟(莫高窟) 第148窟は、涅槃窟と呼ばれるとおり、身長15mの釈迦の涅槃像が横たわっている。その後方には83体に及ぶ塑像の釈迦弟子、天人、各国王子、菩薩、羅漢等が悲嘆にくれた表情で立っている。 莫高窟に向かって、一番右端のいくつかの窟は、修行僧の住まいであり、彼らの遺骨の他は、なにも見つかっていない。私たちは、右側にある窟の内、7窟の解説を聞いて日本語解説者と別れた。あとは自由に見学して下さい。お薦めの窟は、何番ですと4窟の番号を教えてくれた。 修行僧の住居(莫高窟) この時点でかなりの疲れを感じていたが、せっかく来たのだからと、推奨された窟を見て回った。しかし、これらの窟は、当日券で鑑賞できるとあって、大勢の人で込み合っていた。しかも解説がないため、ほとんど、素通り状態であった。 AM12:00、日本語解説者が薦めてくれた、4窟の見学を終わり、二人の日本人とも別れた。さて私は英語での解説グループに参加している、私のツアー仲間、6人と合流したい。私は莫高窟のシンボルである96番窟の前で待つことにした。 木陰を探して休んでいるが、気温は35度位だろうか。汗が出て喉が渇く。売店でアイスクリームを買って食べる。5元。そうして1時間待ったが誰にも会うことはなかった。 木陰を求めて(莫高窟) PM1:00、これ以上待ってもどうか?先に帰っているかも知れないし。と思い、記念に96番窟の前で写真を1枚撮ってもらった。ホテルに帰ってからその写真を見ると、私の後方にセブギが写っていた。互いに側にいながら全く気づかずにいたのだ。 左端がセブギ(莫高窟) 私は一人で帰りの専用バスに乗り、「莫高窟数字展示中心」へ戻った。さらにそこから、路線バスに乗り換え、敦煌市内まで戻ってきた。3元。最後は徒歩でスーパーに寄り、リンゴ(7元)やジュース(4元)を買いながらホテルに帰着。暑い中、敦煌莫高窟の見学が終了した。 PM3:00、シャワーを浴びて、ポメラを叩く。 PM5:30、仲間と夕食に外出。夜店で有名な通りを冷やかしながらのそぞろ歩き。露天の土産店では、大小、色とりどりの石を並べて売っている。 小さな店で、おばちゃんが鉄板焼きを作っていた。ベーコン巻きを、ニキータが注文したので、私もつられて注文した。10元。スパイスが効いて美味しかった。 最後に皆でレストランへ。私は先ほど食べたベーコン巻きで、大分お腹が膨れていたが、おつき合いでうどんを注文した。しかし、やはり多すぎて食べきれなかった。 PM8:00、ホテルへ帰着。本日2度目のシャワーを浴びて、ポメラタイムへ。 PM9:30、就寝。 7月26日(木)ハミ AM5:30、起床。パッキング。ホテルからの差し入れで、お馴染みになった朝食。スコットは、口に合わないようで食べようとしない。 AM7:00、出発。今日は新彊ウイグル自治区へ入る。敦煌の町を出ると一面が砂漠化した荒野であった。そして、所々に発電用の風車が無数に立っている。こんな場所なら誰の邪魔にもならず、土地の有効活用としてはグッドアイデアだと言えるであろう。 発電用の風車(新彊ウイグル) AM9:15、新彊に入る。公安警察がトラック・バスに乗り込んできて、車内をチェックする。その後、現地ガイドの張さんが、全員のパスポートを集めて持っていく。時々、政治的に不穏な動きが発生しているこの地域に、政府当局は特別な警戒をしているのだ。 AM10:10、トイレ休憩。トイレと表示されている所を覗いてみると、くみ取り式の便所で、しかも、何年もくみ取っていないかのように、便が渦高く足下まで盛り上がっている。 異臭のすごさと蠅の多さに圧倒されながら、破れかぶれになって小便を垂れると、下からのものすごい風にあおられて、小便が便器に入らず、自分の方に向かって飛び散ってくる!!男たちは苦笑しながらそこで用を足していたが、女性には耐えられないようであった。 AM10:50、トラック・バスは給油を済ませて発車。 AM11:20、早いランチタイム。食堂はあってもトイレはない。ここでは新彊ヌードルが有名だというので注文して食べたが、味に特段の感想はない。ただ、麺とスープが別々のボウルに入れて出され、自分でそれを混ぜて食す。今回のスープには、ニラがたっぷり入っていた。12元。 AM12:00、出発。そして間もなく公安警察による停止命令。全員トラック・バスから降ろされ、パスポートチェック。係官は一人一人のパスポートを念入りにチェックし、写真を撮っている。 時間が掛かり過ぎると思ったのか、女性係官が小さく切った西瓜を、皆に振る舞ってくれた。今日は、そんなことを何度も体験して、ウイグル自治区の異常さを、実感する事になった。 PM0:50、出発。現地ガイドの張さんから「警察官の写真は絶対に撮らないように」と言う注意があった。録音してきた中国語口座を聞き終わった。講義の内容はだいたい理解できるが、いざ必要な時にそれが口から出てこないのが実状である。 PM3:40、トイレ休憩。暑さしのぎにアイスクリームを1本。4元。 PM4:30、ハミのホテル着。ホテルのロビーに入る時も、荷物のX線検査があり、警察官が立っていた。 荒れ地の1本道を走って来て着いたハミの町は、今までの景色は何だったのかと思うほど、整って美しい町である。人の姿も多くなく、3車線の広い車道には新しい車が走り、並木も綺麗に植わっている。ここが砂漠に囲まれた町である事を、忘れてしまうほどである。 ハミ駅 PM5:00、ここには1泊しかしない為、ホテルにチェックインするや、すぐにタクシーで町の見学に出た。10元。最初に見学した所は、「ハミ回王府」。ここは、ウイグル族の初代ハミ王が1706年から7年かけて建築した宮殿。現在見られるものは再建されたもの。 ハミ回王府 敷地内には厩舎や牢獄、軍の会議室などがあるが、見所は、玉器城と呼ばれる、ひときわ高い台上の部分。回王宮大殿やイスラム寺院、配殿などの建物が立ち、配殿内部には、王府の歴史資料が展示されている。見学料、一般は40元。私はシニア割引で無料。 回王宮大殿とイスラム寺院(ハミ) ハミ地区博物館 次に見学したのは、「ハミ地区博物館」。ここには恐竜の骨や卵を展示してある他に、ハミ奇石と呼ばれる鑑賞用の石を皿に盛りつけた「奇石大餐」は一見本物の料理ようで、印象深い。 帰路のタクシーが警察に止められ、パスポートを回収された。分乗して先発した他の仲間も、全員車から降ろされている。10分程で解放されたが、イチイチ面倒ではある。そんなに神経質にならなくては、平穏が保てないのか?戒厳令下の町はこんな雰囲気なのであろうか。 タクシー運転手の若い男性は陽気で、いろいろな国の言葉で挨拶し、ウイグル語のラジオを付けている。ウイグル語の文字はアラビア語に似ていて、右から書く事も同じである。その昔は同じ文字であったと思われる。そしてウイグル語の発音は、ロシア語に似ている。ラジオから流れてくる声を聞いてそのように思ったのである。 タクシーから下車するとき、運賃を払うのに財布を開いた。運転手は目ざとく、私の財布に日本のお札が入っているのを見つけ、それと元と交換してくれと言う。幾らなら交換してくれるかとまで言うから、「60元なら」と答えると諦めたようであった。 PM7:30、夕食へ。うどん、8元。 PM9:00、ホテルへ帰着。シャワーを浴びる。 PM10:00、就寝。 7月27日(金)吐魯番(トルファン) AM5:30、起床。ポメラ。 AM7:30、朝食、バイキング。北京オリンピック前の頃と比べると、ホテルの食事内容は、大分良くなっているように感じる。以前はパンが出されても、その質の悪さに閉口して食べられなかったのだが。 AM8:30、出発。 AM11:00、トイレ休憩。警察のチェック。全員が公安警察の建物に連行され、パスポートチェック。更にパスポートを顔の横にかざして顔写真を撮る。これを13人全員がやられる。此処だけで1時間半のロス。「こんな事があるから、ウイグル地区での行程は、予定通りに行かない」と、リーダーは言っている。 PM0:30、やっとのことで我々のトラック・バスが発車。 PM1:00、ランチタイム。カップヌードル、6元。今日はフーゴの49歳の誕生日と言うことで、皆でトラック・バスの中で歌を唄い、リーダーが用意したであろう、質素なケーキをカットした。 PM2:00、発車。 PM3:30、孫悟空が活躍する「西遊記」にも登場する、火焔山を車窓に見ながら走る。トルファンまで30Kmの地点である。トルファンの市内に入ると、新しいアパートが建築されている一方で、昔ながらの古びたイスラム風の家屋が取り壊されている。いずれ、近代化の名の下に、イスラム文化が消滅していくのであろうか。 火焔山(トルファン) PM4:30、トルファンのホステル着。すぐさま、たまっていた衣類の洗濯に掛かる。洗濯と脱水で10元。庭先で葡萄を食べている人が居たので、「私も葡萄を食べたいのだが、幾らですか?」と聞くと、「無料です。そこの庭先に成っているのを採って、自由に食べてください」と言う。私は大きな脚立に上り、上の方に成っている葡萄を採取した。見た目は何の変哲もなかったが、十分甘かった。後はポメラタイム。 PM7:00、「夕食はバーベキューをしよう」と言う呼びかけで、徒歩で20分ほどの公園に皆で行く。途中で私はハミメロンを1個購入。18元。バーベキューの時に皆で食べられたら良かろうと思ったし、自分もハミメロンなるものを食べてみたかったのだ。 バーベキューをしに公園へ(トルファン) 徒歩で公園に向かっている途中でも、警察のチェックがあり、公園に着いたら、バーベキュー会場は閉鎖されていることが分かった。ムードは一気に盛り下がったが、気を取り直して近くのレストランへ。 公園の池(トルファン) PM8:30、やっと皆のメニューが決定。私はシシカバブを1串、春巻き風揚げ物、ヨーグルト、白米、35元。それに先ほど買ったメロンを、レストランでカットしてもらって皆で食した。美味しくはあったが、感動するほどではなかった。日本と違い、そのままでも十分美味しいので、余り品質改良がされていないのではないかと思う。 ウイグル語はその発音が、ロシア語に似ているなと感じていたが、今夜行ったレストランでその感を深くした。それは、店員が私に「貴方は中国人ですか、韓国人ですか」と聞いてきたので「日本人です」と答えると、「おお!ヤポンスキー」と言うではないか。これは紛れもないロシア語である。 しかし、トルコ人のセブギが言うには、「ロシア語ではなくトルコ語です」と言う。私はトルコ語を知らないので何とも言えないが、旅の中頃まで来ると、セブギの言うことが正しいことが分かってくるのである。 PM10:00、夕食を終え外へ出た。公園には大勢の人が居て、中央のステージでは、多くの中年男女がダンスをしている。夜の10時とは言っても、時差を考えると実質的にはまだ8時ぐらいである。北京とは実質2時間の時差があるが、無理矢理、同一時間で統一しているのだ。 PM11:00、ホステルに帰着。夕方に干した洗濯物がすっかり乾いていた。それだけ湿度が低いと言うことだ。私の皮膚は乾燥に弱いから、注意が必要である。シャワータイム。 PM12:00、就寝。 7月28日(土)トルファン〜ウルムチ AM6:30、起床。ポメラ。 AM8:30、相部屋のスコットが、目を覚ますなり「今日は皆で、トルファン郊外の廃墟を見学に行くと言っていたよ。私は気分が優れないので行かないが、8時半の出発だそうだ」と言う。私はすぐに支度をして集合場所へ行った。 私の他に6人居て「マサは、まだ来ていないセブギとタクシーで来てくれ」と言われた。私はそのつもりでセブギを待っていたが、誰かと電話をしていてなかなか終わらない。 9時半にも成ろうかという頃にやっと電話が終わり、受付の人に、見学料とタクシー代を聞いている。結果は、「持ち合わせのお金が少ないので、私は行きません」と言う。結局、私も行く気を削がれてキャンセル。こんな日もあるんですね。 AM9:30、朝食も食べずにポメラを叩く。 AM12:00、昼食。カップラーメン、5元。運転手のジョノに、「中国とこれから行く中央アジアとではどちらが運転しやすいですか?」と聞くと、「中国以外は今回が初めての運転なんだ。だからわくわくし、エキサイトしているのさ」と言う。 大勢の人の命を預かって、初めての所に行くのに、何やら楽しげである。こういう人だから、やっていられるのかも、と思い直す自分が居ました。 PM2:00、今朝、廃墟の見学に出かけた一行が戻って来て、トラック・バスが出発。 ユースホステル(トルファン) PM3:30、トイレ休憩。ジュースとパンを購入。10元。 PM5:30、高速道路のウルムチ出口で、パスポートチェック。 PM7:00、ウルムチ市内を走っていると、警察に車を止められた。どんな話が為されたのか分からないが、10分ほどで解放され出発。すると、数分後に今度はサイレンを鳴らして追跡され、また停止命令。 ウルムチ市内 今回は、私の推測だが、運転手が停止命令に気がつかず、結果として無視して走り続けた為に、パトカーから追跡されたのだと思う。数分前に停止させられたばかりだったので、まさか自分の車が停止を命令されたとは思わなかったのではないか。気の毒なことに、運転手のジョノはこってり絞られていたようだ。 PM7:45、ウルムチのホテルへ到着。新彊ウイグル自治区に入ってからは、まるで、公安警察を観光しているような心境である。高速道路の料金所や、町中の交差点には必ずポリスボックスがあり、車を止められる。我々の車は目立つから、余計に止めてみたくなるのかも知れない。 PM8:15、ロビーにて、今後の打ち合わせ。 PM8:45、スコットと夕食へ。チャーハンに羊肉の蒸し焼きが乗ったものを注文した。25元。羊の肉をこのように料理したものは、初めて食したがなかなかの味であった。 PM10:00、スーパーへ買い物に。目当てはリンゴ。ところが、行ったところのスーパーには、リンゴがなかった。私が「リンゴが欲しいので、売っている店を教えて欲しい」と言うと、店のおやじは、不機嫌な顔をして、「あっちの方にある」と言って指を指す。 そんなに遠くはあるまいと思い、そちらの方へ行くと、そこはすぐ行き止まりであった。「いい加減なことを言って、嫌がらせをしたな」と気付いた。海外に行くと必ず遭遇する問題ではある。 私はホテルへ戻り、受付で「リンゴを買いたいのだが」と言うと、道路まで出てきて、「そこの店にあります」と教えてくれた。行ってみると、そこは、先ほどの小さなスーパーのすぐ隣にある大きなスーパーで、地下街になっていた。私はやっとそこで、美味しそうなリンゴとパンを手に入れる事ができた。20元。 PM11:00、就寝。 7月29日(日)ウルムチ〜精河県 AM6:30、起床。 AM7:30、パッキング。 AM8:00、バイキング形式の朝食。フルーツやコーヒーまで用意されて、これ以上はいらないと言うぐらい充実していた。しかし、出発の時間が迫っていて、ゆっくり味わえない事は残念でした。 AM8:30、出発。 AM9:45、本日1回目のパスポートチェック。全員トラック・バスから降ろされて、更に、トラック・バスに乗った後に、公安警察がトラック・バスに乗り込んできて、顔写真を1人ずつ撮って行った。 AM10:00、出発。 AM11:00、本日2度目のパスポートチェック。 AM12:20、昼食。買い置きのパンとフランクフルト・ソーセージ。6元。 PM1:00、出発。涼しいと感じて長袖のシャツを着ていたのだが、急に暑くなってきたので半袖のシャツに着替えた。車内では、中国語に変わりロシア語講座の録音を聞き始めた。 貨物列車(ウルムチ〜精河) PM3:30、トイレ休憩。 PM3:45、発車。リーダーが、現地ガイドの張さんへのチップの話をしに来た。私も考えていたところだが、どの位の額を差し上げたらよいのだろうか。チップには標準がないようだ。全くあげる人の気持ち次第である。私は、誰かが先に封筒に入れていた50元を参考に、いろいろお世話になった事を考えて100元を入れた。 PM4:00、本日3回目のパスポートチェック。全員トラック・バスから降ろされて、暑い中、1時間以上も立たされたままである。さすがに気の毒に思ったのか、全員に冷えたボトル水を1本ずつ差し入れてくれた。 PM5:10、出発。 PM5:30、精河県のホテルにチェックイン。室内で休んでいると、警察だと称して室内に勝手に入ってきた男がいた。 その男は、赤いティー・シャツを着ており、まだ20代にしか見えないが、腹が出て、脂肪がバンドの上に被さっている。顔も締まりが無く、こんな警察官も居るのかと訝しく思いながらも、指示される通りにやるしかない。我々3人を部屋の壁側に並べ、写真を撮っている。 PM7:00、前もって「勝手に外出してはならない。夕食も皆で揃って行く」と言う話がリーダーからあったので、その時間を待って、部屋から出た。すると、先ほどの赤シャツの男が階段の所に立ち塞がって、「下に降りないで、此処で待つように」と言う。 言われるままそこで待っていると、ツアー仲間も、それぞれの部屋から出てきた。皆が集まったところで、踊り場でもない狭い場所で集合写真を撮るという。皆を並べ、その集団の一番前に陣取って、ピースサインなんかしている。これが本当に警官のやることか?疑問は深まるだけである。 皆でホテルから出ると、「俺に付いてくるように」と言う。言われるまま付いて行く。どんなレストランに連れていくのかと期待していると、最初に覗いたレストランはやっていないと言う。「何だ、俺に付いてこい、と言いながら予約もしていないのか?」全く持っておかしな奴だ。 次に覗きに行った小さな食堂に「全員ここに入れ」と言う。13人がやっと座れるだけの椅子しかないような食堂である。食堂のオヤジには「俺が連れてきてやったのだ」と言う横柄な態度を取っている。 結局、全員の注文を採り終わったのは、8時を回っていた。私は「新彊式ヌードル」を注文した。18元。その間も赤シャツの男は、お腹の肉を揺らしながら、食堂を出たり入ったりして落ち着かない。その表情・姿は、我々を監視しているように見えなくもない。しかし、これが普通の状況なら、新彊ウイグル自治区は異常というしかない。 新彊式ヌードル(精河県) PM9:00、やっと全員が食べ終わってホテルへ。ホテルに着くと、入り口の外で、警察官の制服を着用した人達によるパスポートチェックと、写真撮影が行われていた。これまで赤シャツの男がやってきたのは何だったのか? やがて、大声で怒鳴り合いが始まった。何事かと思ってそちらを見ると、赤シャツの男が、制服を着た男に怒られていたのだ。赤シャツも負けじと怒鳴り返している。 結局「お前は何をやっているのか!それでは職場放棄ではないか」と言うことで、二人の警察官に抱えられて連行されて行った。赤シャツはホテルの守衛のような立場で居ながら、勝手なことをしていたと言うわけである。 後になって、現地ガイドの張さんが、ドライバーのジョノから「赤シャツの正体を見抜けなかったのは、あなたに責任があるよ」と小言を言われていた。ジョノの言うことにも一理あるが、攻められている張さんも気の毒だなあ。 今夜のホテルの入り口前では、これと平行して賑やかな歓談が繰り広げられていた。それは、アメリカのミネソタ州から来た若い3人組との出会いがあったからだ。彼らは2年間の予定で、西安からイスタンブールまでのシルクロードを、歩いている途中であると言う。 26歳、27歳、28歳の3人で、髭を伸ばしっぱなしの彼らは、まるでホームレスのような姿である。「中国を歩いて来るだけで9ヶ月が経ってしまった。2年間ではとても終わりそうにないよ」と屈託がない。 シルクロードを徒歩で(精河県) 一人一人がそれぞれのリヤカーを引きながらの旅である。リヤカーとは言っても、一見すると乳母車の様であるが、それを引いてみると、とても重く、私なら、100mも引いたら誰かに変わって貰いたくなるような重量であった。 文字通りホームレスが、毎日の生活に欠かせない物を、ぎっしりと詰め込んでいるようであった。彼らの旅に比べれば、私たちの旅は気楽なものだ。極端なことを言えば、トラック・バスに座っているだけで、イスタンブールまで行けるのだから。 PM10:00、歓談は何時までも終わりそうになかったので、私は失礼して入室し、シャワーを浴びる。その後ポメラ。 PM12:00、就寝。 7月30日(月)精河〜コルガス AM6:30、起床。小時間ポメラを叩いた後、パッキング。昨日遭遇した徒歩旅行の一行と記念撮影。各人が引いているリヤカーを見せて貰った。当然と言えば当然だが、相当の重さである。一人のリヤカーには太陽光のパネルが付いていた。 徒歩旅行者・3人のリヤカー(精河県)
記念撮影(精河県) AM8:00、出発。朝食はトラック・バスの中で、買い置きのパンを少々。車窓からは、ブドウ畑が一面に広がっている。16日に転んで擦りむいた所のかさぶたが、少しずつ剥がれてきた。やはり、一応の治癒に2週間は掛かるようだ。 AM10:00、トイレ休憩と給油。カップラーメン、6元。リンゴ、10元。 AM11:00、トラック・バスは、カザフスタンとの国境に近い所にある賽里木湖(サイラム湖)を右手に見ながら走っている。この湖は標高2073mに在り、気温が急に下がってきた。長いトンネルを走って峠を越えると、今度は長い下り坂に入ってきた。 サイラム湖(コルガス) ユルタの村(コルガス) 高架橋(コルガス) AM12:00、トイレ休憩。茹でて熱いトウモロコシ1本、3元。ここのトウモロコシは、日本で食べるのと似ていて、柔らかく甘かった。 PM1:00、ポリスによるトラック・バスのストップ。 PM1:20、ホテルに到着。トラック・バスから積み荷を降ろして、チェックインを待っていると、ホテルの受付にいる張さんの交渉が長引いている。結果は、「このホテルは、外国人は宿泊できない」と警察が言っているとの事。当然、予約を取っているにも拘わらずである。 このホテルのロビーには、警察官が5人ほど、たむろしているが、彼らがそのように言っているらしい。中央の総論より、地方の各論の方が、効力があると言う話は、中国では珍しくないらしい。 我々は、外国人が泊まれる、ほかのホテルを紹介して貰って、そちらへ向かった。 PM2:40、新たに決まった霍尔果斯(コルガス)のホテルに到着。 PM3:10、チェックイン。ポメラタイム。 PM7:30、夕食へ出かける。現地ガイドの張さんのお別れパーティーを兼ねてと言うから、少しは豪華なところへ行くのかと期待していたが、結果は水餃子屋さん。皆は水餃子を食べながらビールを浴びて話が弾んでいるが、私は、水餃子を15個食べて終わり。12元。拍子抜けのお別れパーティーでした。 PM9:30、眠くなってきたので、ホテルに一人だけ先に帰着。シャワーを浴びる。 今回の新彊訪問は、戒厳令下の如き状況での訪問であった。ひたすらパスポートチェックを受け、自由行動は制限され、おびただしい警察官が、至る所に配備され、人々を監視していると言う、異常な状態であることを身を持って体験した訳だ。記憶に残る観光はほとんど無かった。 PM10:30、ポメラタイム。 |